早熟

田舎出身だったので、たいして勉強をしてなかった。大学に入って勉強してみると(9年目)知らなければならないこと勉強しなくてはならないことが沢山ある。

もし、小学生や中学生のころに何を勉強するべきかとか、学術書を見る機会があったなら、ありあまる時間を有意義に使っていただろうにと思うことがある。

東京出身の人には早熟な人がいて、中学生ぐらいには標準的な学部生ぐらいのレベルに達している人がいる。まぁ、良くありえる話だ。都会の方が学習に関しては高速道路が整備されている。

そういう人と比べると自分は随分出足が遅かったなと思うことも多々あるが、悔やんでもしかたがない。

でも、たまに思うことは、それはそれで良かったのではないかと思う。放課後サッカーをして、木登りをして、クワガタ無駄に50匹飼って、ザリガニを獲りに行って、水泳をして、かけがえのない子供時代を送れたのではないかと思う。

高速道路は大人になってから乗ればよい。早熟の天才が蠢く物理や数学の世界で自分のようなものでも、気付くことや研究すべき課題に余地を見出せるのは、早熟であることが、必ずしも学者であるための必要条件ではないということを示しているのではないかと思う。と同時に、早熟である人たちが自分より能力があるとも思えない。

子供は大人の縮小版ではない。大学に行く道の途中で、小学生の女の子が道の途中でうずくまっていた。何をしているのかと見るとカタツムリを観察していた。こういうのが子供なんだなぁと思う。カタツムリの観察で得たことは、絶対大人になってからは得られないものだ。大人になって図鑑でカタツムリを見たり、知識として生物学上の事を知ったりしても、ジーッとカタツムリを子供の目線で見た経験とは異質のものだ。

今、世の中では子供でもアクセスできる学習の高速道路があちらことらに敷かれている。これは本当に人類の知恵の向上に良い現象なのだろうか?子供世界の縮小ではないだろうか?

将棋の伝説的な人物に升田幸三がいる。独創的な差し回しで、往年の将棋ファンを沸かせた人だ。

渡辺竜王が「升田幸三の感覚が現代に通じるものを感じる」とか、誰かが、「今の若手(研究や情報量が豊富)は年配の棋士の指し手が古臭く感じたり、ダサいと思ったりするようだけど、指してみるとダサい手を相手になかなか勝てない。」とか書いてある。(記憶があいまい)

高速道路が知性にどう影響するのかは興味ある。高速道路が整備されている時代に抜けることができるのは、高速道路を歩まなかったものではないのかと考えたりもする。

早熟の秀才は今の時代は沢山いるが、秀才が独創的であるとは限らず、高速道路の先で渋滞を起こしていることが往々にしてある。

やっぱ、小学生は塾に行かないでカタツムリを観察しているのがいいのかなぁ。