頭のいい人

寺田寅彦の随筆に「科学者とあたま」がある。
寺田寅彦 科学者とあたま
要約すると、サイエンスをやるには頭が悪くないといけないということらしい。

「科学者になるには『あたま』がよくなくてはいけない」これは普通世人の口にする一つの命題である。これはある意味ではほんとうだと思われる。しかし、一方でまた「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」という命題も、ある意味ではやはりほんとうである。そうしてこの後のほうの命題は、それを指摘し解説する人が比較的に少数である。

なぜなら、頭が良いとすぐに難点をあげて、できないと言ってしまうからだ。

頭のいい人は、言わば富士のすそ野まで来て、そこから頂上をながめただけで、それで富士の全体をのみ込んで東京へ引き返すという心配がある。富士はやはり登ってみなければわからない。頭のいい人は見通しがきくだけに、あらゆる道筋の前途の難関が見渡される。少なくも自分でそういう気がする。そのためにややもすると前進する勇気を阻喪しやすい。

日本電産永守重信社長も似たようなことを言っていた。
小型モーターの開発を命じると、頭の良い社員は、即座にできない理由を言って諦める。頭の悪い社員は、できない理由を見つけられないので、とりあえず開発に着手する。

寺田寅彦:頭の悪い人は前途に霧がかかっているためにかえって楽観的である。そうして難関に出会っても存外どうにかしてそれを切り抜けて行く。どうにも抜けられない難関というのはきわめてまれだからである。

頭が悪くても経験を積むと、できない理由を即座に言うことができるようになる。数値計算の会社で仕事をしていたとき、最初は素人だったので何を言われてもできる気がしていた。ところが経験を積むうちに、これはできるこれはできないと即座に判断するようになっていた。捨てる選択が早くなってきたのだ。誰かが何かを言うと、「これはこうだからできない」ともっともらしい理屈を述べることができるようになって、自分は少し危ういなと思うようになった。

いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。頭の悪い人足ののろい人がずっとあとからおくれて来てわけもなくそのだいじな宝物を拾って行く場合がある。

頭が悪いと失敗も多く、大方の人は科学という戦場の躯になるのだと思う。そして、運良く宝物を拾えた人が戦士となる。先ほどの日本電産の社長の言葉にも注意する必要がある。多くの頭の悪い人はやはり失敗しているのである。ただ、100人いて、99人躯になろうとも、1人が成功すれば企業体としては十分なのである。

科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸しがいの山の上に築かれた殿堂であり、血の川のほとりに咲いた花園である。一身の利害に対して頭がよい人は戦士にはなりにくい。

世間はそういう躯には目を向けず宝物を持ち帰った戦士のみに衆目を集めるが、躯になったものも相応の辛酸をなめているのである。成功者と失敗者をわかつものは単に運だけなのかもしれない。

頭の悪い命知らずの一人として生まれてしまった以上、躯になるのもやむなしとは思っているが、三国志の時代ならともかく、現在は本当の躯になることはめったにない。案外、なんとかなるかもしれない。

最後に、日本が科学政策としてやることは、頭の良い人に成果のあがることをやらせるのではなく、頭の悪い人に死に場所を与えることなのではないかと思う。宝物を拾ってくるのは確率の問題なのだから。

STAP細胞に関する画期的研究から考える、日本の官製イノベーション思想の是非 | ハフポスト

日本では、画期的な研究というのは、事前にターゲットを絞り、国家予算を重点投入することで実現できると考えている人がいまだに多い。このため官庁に対するプレゼンが上手な研究者に予算が偏って配分されるという現象が生じやすい。また既存の価値観が予算配分の基準になるので、学会などにおける地位の高い人の意向が反映されやすい。

同じ理化学研究所の実績に、計算速度世界一を争ったスーパーコンピュータの「京」がある。ある国会議員が「2番じゃだめなんですか?」と発言して話題になったが、こうした分野はお金をかければかけただけの成果があり、トップになることは比較的容易である。それはそれで立派なことではあるが、すでに存在しているコンピュータの計算速度で一位になることは、破壊的なイノベーションにはつながらない。本当に革命的な研究というのは既存の概念をすべて覆すものであり、それを事前の予測で実現することは不可能なのである。

米国では投入した予算とイノベーションの関係についても数多くの実証研究がなされている。日本でもこうした実証的な研究を行い、本当に予算が効率的に使われているのかチェックする必要がある。

従来の概念に基づいて「成果が上がりそう」と皆が思う分野にだけ予算を付けている状況では、画期的なイノベーションは生まれにくいのだ。場合によってはランダムに分野を選定するぐらいの思い切りが必要なのかもしれないが、こうした措置は日本の官僚組織がもっとも不得意とするところかもしれない。