地震

2011年3月11日昼:朝まで論文の手直しをしていて、3時間ほど寝て、大学に向かう。

14時46分:日吉駅から矢上キャンパスに向かって歩いていた。地震発生。近くの駐車場に移動して、地震が過ぎ去るのをまつ。

15時:矢上キャンパスに到着。校舎の中から人がぞろぞろ出てくる。友人とのんきに話をする。このときは、いつもより揺れが長いものの大したことないだろうと思っていた。日吉地区停電。電話も通じなくなる。

16時頃:帰宅を促す放送が流れる。帰れる人は帰宅。帰れないので研究室に残る。研究室内、博士課程二人、修士一人。

弁当を買いに出かけるが、矢上キャンパス近くのコンビニの人に、「お断りしているんです」と言われ物を売ってもらえなかった。「こういうときだからこそ、売ってください」と頼むも断られる。ちなみに近辺にもコンビニがあったが、この店以外は懐中電灯を使って営業していた。

近くのオリジン弁当に行く。ここでは店を開けていて、電卓片手に食べ物を売っていた。これからはここの弁当屋で物を買おうと思った。

正直、商品があるのに店を閉じたコンビニの対応には腹がたったが、とあるコンビニの金曜日から土曜日にかけてを読んで、店長の意識が高くないと店を開け続けることはできないものだと知った。あそこの店長にはそのオペレーションをする能力もしくは意識がないか自分のことだけで精一杯、もしくは権限のある人がいなくて対応不可能だったんだろう。オリジンの方は細かい計算と会計ができなくなっていたので、端数切り捨てで売っていた。売る商品が限られてたとは言え大変だったことには間違いないので、売ってもらえてありがたかった。

17時:研究室に戻る。そのうちに電気も復旧するだろうと思っていた。コンピュータも使えないので、メゾン一刻を読み始める。

18時:暗くなってきた。後輩が、自由が丘の方は停電していなかったという情報を口にする。復旧が今日中では無理とみて、自由が丘に歩くことにする。大体3時間くらい。途中の武蔵小杉まで行けば何かしら交通手段があるという目算を立てる。

19時:武蔵小杉に行くも、都内に向かうバスもないことを知る。そのまま歩いて新丸子に行く。焼肉屋に入って飯にする。

21時:早めに居場所を確保したほうが良いと思い、店をあとにする。近くのホテルは案の定、満員。自由が丘にある塾の部屋なら入れるとのことで、とりあえずそこに向かう。

22時:自由が丘の塾の部屋に入る。とりあえず安心。電気も通っていた。

23時:どうせならカラオケ屋でオールしようということで、カラオケ屋に行く。運良く開いていた。東横線が復旧したことで、お客さんが部屋をあとにしたらしい。

ソフトドリンクが飲み放題だった。部屋が暖かく、温かいココアが飲めたので過ごしやすかった。

12日 朝6時:カラオケ屋をあとに出る。塾に戻る。ここで電話ができるようになったので、家族に電話をする。大学の警備室に電話して、日吉の電気が復旧していたことを確認したので、研究室のコンピュータを見に大学に戻る。JRが動き始める。

8時:研究室で過ごす。メゾン一刻2巻を読み終わったので、帰宅準備をする。

10時:帰宅

その後、ほぼ一日眠り続ける。起きたのは、13日の昼。ネットもテレビを見ていなかったので、東北の方での被害が甚大であったのを知らなかった。


結局、夜道を3時間以上歩いていた。運よく食事もでき、カラオケ屋にも入れ、最低限の宿があったので、そこまで辛い思いはしなかったけど。寒さの中夜道を歩き続ける辛さも実感できた。ただの帰宅困難、それも運よく食事も遊びも宿もあったのに、かなり疲労した。

文章で書くと単に街をさまよって食べて遊んでただけになっているけど、帰宅困難者になったときはそれなりにやばいと思っていたんだよね。普通に過ごしたら最悪の夜になるのは分かっていたんで、積極的に楽しい方向にしようと思った。

それと電気がないとやはり寒い。東北で被災した人はこれの比にならない思いをしたのだと思うと、胸が痛む。テレビで見た映像は想像を超えていた。帰宅困難者として街をさまよっていたときは、情報が一切入ってこなかったので、そこまでの被害があるとは思わなかった。

早期の復興を願い、どこか信頼の置ける団体に少ないながら寄付をしようかと思う。