モニャドセミナー2に行って来た。 数学と物理について、だらだらと(演繹と帰納)

モニャドセミナー2の資料やら補足やらナニヤラ - 檜山正幸のキマイラ飼育記

圏の例をいっぱい見てきた。
http://www.chimaira.org/archive/slide090521-6s.pdf

リダイレクトの警告
2009-05-21 - melpon日記 - HaskellもC++もまともに扱えないへたれのページ

最近、どこかで、

数学は演繹の学問ではなく、他の科学と同様、帰納の学問だ。

と書いてあったのを読んだ記憶がする。

教科書を読むと、
公理があって、それらを使って定理を証明して、・・・・・・・
って流れだけど、
公理系を構成するためには沢山の例の中から、共通する構造として公理を抽出したのであって、そのプロセスは、物理が現象の観察から原理を抽出する過程となんら変わらない。

先駆者と同じ見識を得るためには、先駆者が現象の観察から公理を抽出するのと同じ過程を歩むのが良いのかもしれないけど、それではその人がその公理、原理を発見したのと少なくとも同じくらいの時間をかけなくてはならないので、教科書では、学習効率と理解度が調度よい感じになるように、公理、原理から他の例や現象を見ていく書き方になっている。

圏の例をこのセミナーで観察できたのは良かったと思う。観察ができたら、共通する構造として、圏の公理から、定理を構成していかなくてはならない。

それに最適な勉強会が
告知:第二回「層・圏・トポス 現代的集合像を求めて」勉強会 - hiroki_fの日記

7時間耐久勉強会。とはいっても、途中でトイレ休憩と水を飲む休憩が入るので、そこまで厳しくない。

週に最低50時間勉強しろという、
How to prepare for seminars
に比べれば、大したことない。

「全部完全にわかった」という状態になるまで,考えたり,調べたり,人に聞いたりするのをやめてはいけません.「自分は本当にわかっているのか」と言うことを徹底的に自問して「絶対にこれで大丈夫だ」と思えるようになる必要があります.「だいたいこうみたいですけど,これでいいんでしょうか」などというのは(たとえ結果的に正しいことを言っていたとしても)何もわかっていないのと同じです.「完全に正しいと断言できる」ということと「自分にはわかっていない」ということの違いが自分ではっきりとつけられるようにならなくては何も始まりません.あいまいな状態のまま,セミナー本番に臨むようなことは論外です.

断片的に何をしていたのかくらいは,おぼえているでしょう.そうしたら残りの部分については,思い出そうとするのではなく,自分で新たに考えてみるのです.「どのような定義をするべきか」,「定理の仮定は何が適当か」,「証明の方針は何か」,「本当にこの仮定がないとだめなのか」,「どのような順序で lemmaが並んでいるべきか」などです.そうして,筋道が通るように自分で再構成する事を試みるんです.これもなかなかすぐにはできないでしょう.そこで十分考えたあとで,本を開いてみます.するといろいろな定義,操作,論法の意味が見えて来ます.これを何度も,自然にすらすらと書き出せるようになるまで繰り返します.普通,2回や3回の繰り返しではできるようにならないでしょう.

数学を勉強するにはこれくらいあたりまえにしなくちゃいけないんだけど、実際、数学科でなければ、これをすることは難しいことだと思う。

あと、(少なくとも本に書いてあることが)「完全に分かる」と言うのは数学ならではの独特な感じがした。

数学の本は学部レベルの本でも、ちゃんとした本を読めば、公理から始まって、定理の証明と演繹のプロセスを得ている。つまり、公理系を定めて、世界を閉じさせることができる。

物理の本を数学みたいに原理(公理)から初めて現象(定理)の説明と書くことは難しい。
そりゃ、古典力学とか電磁気とかの一部分などのように、限られた現象をそのように扱うことはできるけど、それは物理としてはよろしくないような気がする。

理想化された世界だけをみても、それは物理じゃないので、結局、書いてる本人もよく分からないところまで言及する必要がある。そういう部分は現象論と言われるのだけど、物理は現象論がところどころ入ってくるので、体系付けられた公理系を勉強しているのではなく、つまるところ例を沢山見せられているに過ぎず、原理の抽出は、未来、もしくは読者にゆだねられる。

だから、なんとなく分かったみたいな程度の理解で勉強せざる得ない部分がある。

物理では繰り込みといわれる計算があるけど、あれなんてなんとなくしか理解することができない。

繰り込みの簡単な例は、高校物理の電磁気に出てくる。

電荷がその例だ。

電荷があると、そいつは回りに電界:Eを作る。その電界は他の点電荷:qがあった場合、その電荷は、力:F=qEを電界から受けることになる。

さて、ここで疑問が一つある。

電荷は自分自身が作った電界Eから、力を受けないのか?

実は、この作用を繰り込みによって無視している。でも点電荷が加速運動している場合は、自身の作った電界の影響を受ける。

こういうことをちゃんと考えると、電磁気学も単にマクスウェルの式とローレンツ力だけでは原理が足らなくなる。教科書を読んで、物理を完全に分かるということはまず望めない。だから、物理を数学的に真面目にやりすぎるのはナンセンスな感じがする。どこかイイカゲンな部分が必要だと思う。

たぶん、化学とかさらには薬学、医学などとなったら、数学のスタイルとは全然遠いところに行ってしまうだろう。

公理系として記述することに完成度に差はあれ、現象から原理を抽出するというプロセスは、どの学問も同じだと思う。





追記:
高木貞治

Gauß (ガウス) が進んだ道は即ち数学の進む道である。その道は帰納的である。特殊から一般へ ! それが標語である。それは凡(すべ)ての実質的なる学問に於いて必要なる条件であらねばならない。数学が演繹的であるというが, それは既成数学の修行にのみ通用するのである。自然科学に於いても一つの学説が出来てしまえば, その学説に基づいて演繹をする。しかし論理は当たり前なのだから, 演繹のみから新しいものは何も出てこないのが当たり前であろう。もしも学問が演繹のみに頼るならば, その学問は小さな環の上を周期的に廻転する外はないであろう。我々は空虚なる一般論にとらわれないで, 帰納の一途に邁進すべきではあるまいか。

近世数学史談, p. 57, 共立出版

が言っていたらしい。でも、これを読んだことがないから、他の人が似たようなことを言っていたのだと思う。

参考url
http://www.nn.iij4u.or.jp/~hsat/misc/math/deducinduc.html